彼のバイクで海辺まで

ベランダの展望は、南西の真向かいにマンションがあるだけで、周囲に他に 電波塔以外の高い建造物がないせいで、建物の際にあたる東北の方角には、空気が澄んで天候が良ければ 辛うじて海が臨めるのだけれど、そうでなくて 曇っていても靄けていても 夜のつつ闇であってさえも、彼女のいるその方角を眺めては、考えてしまう、記憶に優勢な 何でも呑み込む無限のブラックホールみたいな 夜の感触ばかりを追うせいで、いざ会い目にすると、実際のその体躯の小ささに はかなさに 泣きそうになる。
真っ暗になって、いつしか家に来て背後にいたRの顔も見ぬままに思わずに「海が見たいな」と口走ったら、本当に海まで行くかと持ちかけられ、その返答は予想だにしていなかったから、でももう夜だし暗いし風も冷たくて寒いし さすがに悪いよと遠慮したら、「おれも走りたいから」と、彼のバイクで海辺まで。
ぼくらの家がある市街地の外れから海までは、車で45分もあれば着く。樹林のなかに点在する民家と工場と、生き物みたいに聳つ背の高い路灯以外には、人一人いない (実際には、街灯の下に屯っていた、軽装の地元のギャングが数人、ぼくらに後続し 道路の真ん中に出て 卑猥なことばを投げつけ囃し立ててきたが)、他所よそしく ただ広い夜の郊外を、運転するRの腰にしがみついて体を預けて、向かい風に煽られて走り抜け、駐車場にバイクは停めて、今はもううち捨てられたような海の家と木のベンチとテーブルのある小さな砂浜の、水に濡れない ぎりぎりの渚に 二人並んで 身を密着させて居た。
前の駐車場には車、横の船着き場には 私用の小舟が たくさん停/泊めてあったが、持ち主はどこへやら、周りには誰もおらず、坂を下って低まったところにて、民家の窓明かりも 防波堤と木立に隠れ、午後からの強風は少し弱まってきていたけれど、それでも、至近距離でも会話が成り立たない轟音でとり巻き、体の熱を奪っていくし、砂が入るから目を開いていられないし、海は地獄へと引きずり込むように黒々と 寄せ退き 一時毎に姿を変え うごめく瀾はただ恐ろしく、遠くの岬の発電所の灯りすらも冷ややかで、どう転んでもロマンチックなムードには持ち込めそうもない荒寥のなか、それでもRくんは笑顔をつくって、吻づけをしてくれた。浜辺の際の電灯に皓く照らされた笑顔が綺麗だった。最近生やし始めた口髭の感触が擽ばゆかった。
この辺は、地形が入り組んで、幾重もの湾に囲まれた内側だから、遠くの海も大陸も臨める筈がないのは分かりきっていたが、互いの体温しか頼れそうなもののない辛辣な場に身を寄せるのが 自縄自縛性もあり どこか心づよく、寒さと退屈が限界に達するまで、何時間か頑張って座っていた。